Month: February 2016

2020年開催、東京オリンピック情報


2020年第32回夏季オリンピックが東京開催に決まりました。東京での開催は56年ぶりになります。(その間、日中戦争や第二次世界大戦で開催はしなかったのですが記録上で残す事が決まってるので現時点で3回目になっています。)アジア北京オリンピックから12年ぶり。日本では冬季の長野オリンピック以来22年ぶりとなります。

第125次IOCの総会で日本政府、招致委員会、JOC等関係者らを大量動員をしてロビー活動を行いました。また、最終プレゼンテーションでは安倍首相、皇族の高円宮妃久子様がスピーチを行う。皇族がIOC総会に出席するのは初めてである。また今でも印象が残っている方も多いかと思いますが滝川クリステルさんの「お・も・て・な・し」というフレーズもここから始まりました。

競技会場について味の素スタジアムは「東京スタジアム」、ひとめぼれスタジアム宮城は「宮城スタジアム」、日産スタジアムは「横浜国際総合競技場」と一時的に名称が変わります。オリンピックスタジアムメイン会場は「新国立競技場」です。ここでは主に陸上競技、サッカー(決勝)、開会式、閉会式を行います。「東京体育館」では卓球。「国立代々木競技場」ではハンドボール、パラリンピックではバトミントン、ウィルチェアーラグビー。「日本武道館」では柔道。皇居外苑では自転車競技(ロード・レース)。「東京国際フォーラム」ではウェイトリフティング。「両国国技館」ではボクシング。「マラソンコース」はまだ確定はされていないみたいです。「有明アリーナ」ではバレーボール、パラリンピックでは車椅子バスケットボール。「有明BMXコース」では自転車競技(BMX)、「有明体操競技場」では体操競技、パラリンピックではボッチャ。「有明テニスの森公園」ではテニス。「お台場海浜公園」ではトライアスロン、競泳、パラリンピックでは自転車競技、トライアスロン。「潮風公園」ではバレーボール(ビーチ)。「大井ふ頭中央海浜公園」ではホッケー、パラリンピックでは7人制サッカー、5人制サッカー。「海の森水上競技場」ではカヌー、ボート。「葛西臨海公園」ではカヌー。「夢の島公園」ではアーチェリー。「アクアティクス・センター」では飛込、競泳、シンクロナイズスイミング。「東京辰巳国際水泳場」では水球。「馬事公苑」では馬術。「武蔵野森総合スポーツ施設」ではバトミントン、近代五種(フェンシング)、パラリンピックでは車椅子バスケットボール。「東京スタジアム」では近代五種(水泳、馬術、ランニング、射撃)、ラグビー。「陸上自衛隊朝霞駐屯地」では射撃。「霞が関カンツリー倶楽部」ではゴルフ。「さいたまスーパーアリーナ」ではバスケットボール。「幕張メッセ」ではフェンシング、テコンドー、レスリング、パラリンピックではゴールボール、テコンドー、シッティングバレーボール、車椅子フェンシング。「江ノ島ヨットハーバー」ではセーリング。「伊豆ベロドローム」では自転車競技(トラック)。「日本サイクルスポーツセンター」では自転車競技(マウンテンバイク)

以上が開催会場に予定されています。

スポーツ好きの梶原吉広がブログやってます。

活躍するイチロー(42歳)をピックアップ③


2007年7月にはシーズン終了待たずに7月には5年9000万ドルで契約延長。7年連続出場したオールスターゲームにおいて史上初のランニング本塁打を放ち、3打数3安打2打点を記録する。オールスターMVPを受賞する。そしてこの年にゴールドグラブ賞とシルバースラッガー賞を同時に受賞する快挙を成し遂げる。

2009年第2回WBCに出場する。開幕前はかなりの不調でマスコミからはバッシングを受けつつも原辰徳監督は全試合イチローを1番起用をし続けた。イチローはその監督の意思に応える如く決勝の韓国戦で6打数4安打という活躍で日本の連覇に多大なる貢献をもたらした。しかしWBCが終了後に極度の疲労により体調を崩し初の故障者リストに入ってしまう。ですがその後も27試合連続安打を記録してオールスター出場も果たした。シーズン終了結果も故障者リストに入っていた事にかかわらず225安打を記録。

2011年メジャーデビューから調度10年が経ち最初は快調な滑り出しだったのですが、5月以降は不調が続く。連続で獲得していた「打率3割」「200安打」「オールスター出場」もここで途切れてしまう。メディアからも「年齢による衰え」、「期待外れ」とバッシングを受ける。

2012年メジャー移籍後初めて日本公式開幕戦に出場をし活躍を見せる。しかし中々調子は戻らず打率も261であった。7月23日にトレードによりニューヨーク・ヤンキースへ移籍する。移籍発表では自身が移籍を志願していたと明かす。そしてヤンキースへの移籍に対しては「結果的には一番勝ってないチームから、一番勝っているチームに行くということになるので、テンションの上げ方をどうしようかなと思います」と応え、背番号51がイチローの憧れでもあるバーニー・ウィリアムスが付けていた番号であり本人は「付けられない。」と固辞し、背番号は31になった。ヤンキースでの活躍で調子が徐々に回復をしていく。2013年3月に開催されるWBCに出場要請を貰うも本人は辞退。「ボクの中で第2回大会を終えた時点で3回目の出場は考えられませんでした。今日までその気持ちが変わることはなくこういう形になりました」とコメントする。

2015年 2013年から2014年にかけては不調な成績で終わりFAとなった。1月27日にマイアミ・マリーンズと1年契約を結ぶ。背番号は51。メジャーリーグ球団の40人枠野手で最年長となる。シーズンが始まるもスランプによる不調が続く。7月から安打を記録すると少しずつ回復しつつある。10月には来期の1年契約をマーリンズと結んだ。

活躍するイチロー(42歳)をピックアップ②


2001年にマリナーズへ入団するも周囲は日米問わず冷たい反応が多く、また背番号51が「ランディ・ジョンソン」が背負っていたイメージが強くあまり好意的なイメージでは無かった。だがその後のイチローの活躍が続くと好意的なイメージを持たなかった者達が減っていき。しまいには冷たい反応だった「シアトル・タイムズ」にてお詫びのコラムが掲載される。

4月から5月にかけて制定された月間MVPを受賞する。オールスターゲームでのファン投票も337万票を獲得する。両リーグ通じても1位という得票数です。また8月、9月の活躍で再び月間MVPを受賞。チームの地区優勝に貢献をしたとマリナーズは、コミッショナー特別表彰を獲得する。アメリカンリーグ史上初の新人王・MVP・首位打者・盗塁王・シルバースラッガー賞・ゴールドグラブ賞の同時受賞を達成する。

2004年、前年はオールスターのファン投票で3年連続両リーグ最多。そして2004年には中間発表で3位松井秀喜選手でイチローは4位であった。最終発表では逆転し4年連続でオールスター出場をした。10月には258安打ち着実に安打を増やしていった。最終的にチームは最下位になるも262安打でシーズン最多安打記録を更新する。同時に打率は372でメジャーでは3年ぶりの2度目の周囲打者に、その他にも得点圏打率(.372)、得点圏出塁率(.484)、2死得点圏打率(.472)、2死得点圏出塁率(.600)、走者あり打率(.364)、走者あり出塁率(.439)、対左投手打率(.404)、敬遠数(19)、出塁数(315)というリーグ1位に輝くまたロード打率、後半戦打率を記録し、ロードで記録した145安打もシーズンメジャー最多安打となりました。この記録、成績を通して米国内の新聞で偉業を称える記事が掲載され、中でも「USAトゥデイ」には全面広告で祝福の記事が掲載された。そしてイチローはコミッショナー特別表彰を受ける。日本からも正力松太郎賞特別賞が授与される。

2006年ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選出。イチロー自身「オリンピックはあくまでアマチュアの為の大会。自分はプロ」という事で国際大会の参加を断り続けていた。だがWBCはメジャーリーグ主導によるプロ初の大会という為に参加した。1次リーグの調子がのらず。2次リーグから決勝は調子を上げていき、アメリカ戦では先頭打者本塁打を記録する。マリナーズでは決して見れなかった感情むき出しにプレイする姿、決起集会で鼓舞する姿で日本の野球選手の顔としてチームを引っ張っていく存在になった。

 

 

 

活躍するイチロー(42歳)をピックアップ①


2016年2月22日にオリックスの宮内義彦オーナーが大阪市内の会合でイチローの野望を明かした。それは「背番号に合わせて51歳まで現役」という野望だ。また本人は「監督には全く興味ない人」だという印象も受けたという。そんなイチロー選手の活躍を振り返ろう思います。

愛知を代表する名門野球部の愛工大名電高校入学する。そして1年生の段階でレギュラーを獲得。2年生の時には夏の甲子園に出場して。3年生の春の甲子園出場を果たすが初戦敗退で終わっている。3年間の高校通算成績は536打数269安打、打率.501、本塁打19本、二塁打74本、三塁打28本、盗塁131です。

1991年ドラフト4位でオリックス・ブルーウェーブに入団。1992年7月に福岡ダイエーホークス戦で、1軍初出場を果たす。翌日のダイエー戦ではスタメン出場。同年ジュニアオールスターでMVP獲得をし、賞金全額を神戸市の養護施設に寄付をした。

1993年「振り子打法」を作り上げる。ハワイ・ウィンターリングの「ヒロ・スターズ」に派遣、所属し優勝。初のMVPに選ばれる。

1994年登録名を「鈴木一朗」から「イチロー」に変更。イチローは一軍の2番打者に抜擢。4月末には1番打者として5月から8月にかけて69試合連続出塁を記録します。そして最多安打記録を44年ぶりに更新し、130試合制でシーズン200本安打の快挙を上げた。最終的には210本の安打数を記録。首位打者を獲得をするも最高出塁率・ベストナインゴールデンクラブ賞・正力松太郎賞を獲得。打者として最年少でシーズンMVPに輝いた。

1995年開幕前に阪神淡路大震災により、本拠地神戸市が多大な被害を受け、イチロー自身もオリックス寮で被災する。オリックスは「がんばろう KOBE」をスローガンを掲げた。そして中でもイチローは復興を目指すシンボル的存在となる。そして成績も、首位打者・打点王・盗塁王・最多安打・最高出塁率。「打者五冠王」を獲得する。2年連続のMVP・ベストナイン・ゴールデングラブ賞・正力松太郎賞を受賞し、リーグ優勝を達成した。

1996年にも3年連続のMVPを獲得。

2000年1999年の始めまでスランプ気味ていたイチローでしたが開幕戦から4番指名をされる毎試合スタメンで出場。7月には十度目の月間MVPを受賞する。10月にはメジャーリーグ挑戦を表明する。翌日の本拠地での神戸最終戦でイチローはファンたちに手を振り、一人一人別れの握手をした。7年連続ベストナイン・ゴールデングラブ賞を獲得し、11月10日シアトル・マリナーズで野手としては日本人初のメジャーリーガーとなる。

内定おめでとう!!福士加代子選手


福士加代子選手の名古屋ウィメンズマラソン参加で周囲は揺れていました。しかし、本人はリオ五輪に向けて頑張らないといけないと意気込み出場を決めていた。

福士加代子選手は高校時代までこれという成績は無く、インターハイ等でも決勝にギリギリ残る成績でした。企業のワコールに入社後は駅伝等で選手として急成長を始めます。2002年の2月、横浜国際女子駅伝で日本ナショナルチームに選出。渋井陽子選手と共に貢献し優勝をいたします。6月には日本選手権にて5000メートル、10000メートル共に初優勝を果たす。10月の釜山アジア大会では女子5000メートル、10000メートルは惜しくも共に銀メダル。ですが10000メートルでは自己ベストを50秒縮めてゴールする結果を残しました。12月には全日本実業団対抗女子駅伝大会で左膝を負傷し引きずりながらも走り続けそれでも区間賞を得ましたが、靭帯を切る大けがを負う。

2003年2月に福士加代子選手の故郷にて行われた、青森冬季アジア大会にてけがを抑えながらも最終聖火ランナーを務めました。けがの専念を果たし6月、日本選手権女子10000メートルで見事に優勝。8月の世界陸上には10000メートル11位の結果に終わりました。

2004年1月には京都市で行われた全国都道府県対抗女子駅伝競走大会で青森代表として9区10キロを走り区間記録を出しました。6月には日本選手権では10000メートルで優勝しオリンピックへの出場を果たします。8月に五輪初出場となるアテネ五輪にてレース前に足の故障する。結果は散々なものになりいつもは軽快なトークをする福士選手でしたが、この日は悔し涙を流していた。

2006年1月開催の皇后盃全国都道府県対抗女子駅伝競走大会と12月ドーハアジア大会で10000メートル共に優勝を果たす。

2007年彼女は大きな決断をします。「マラソン選手」として転向。

2008年初のフルマラソンの挑戦が始まります。1月に開催された大阪国際女子マラソンに出場。始めはペースが良かったのですが突如ペースダウン。幾度の転倒で惨敗。その後、福士はもう1度フルマラソンへの参加をほのめかすが北京五輪の選手枠が埋まっていた為断念をする。その後はマラソンから離れトラック競技に戻りました。

2011年10月のシカゴマラソンに福士が挑戦すると発表。結果は3位と2回目のマラソンとして記録を残せたこと急速な成長を遂げていた。

2013年1月の大阪国際女子マラソンに2年連続で出場。2位という結果でしたが、1位のタチアナがドーピング違反により繰り上げ1位、初優勝を飾りました。

そして2016年1月31日に大阪国際女子マラソンにて優勝を飾りリオ五輪の有力候補として名乗りを上げました。ですがこの時の記録をこれからの大会で越されてしまうとリオへの夢は無くなってしまう。福士本人からしたら絶対に出場したいリオ五輪。だから体力を無理してでも名古屋ウィメンズマラソンに出場をして確定をもらいたいと考えていた。

しかし、どんなに鍛えられた選手でもフルマラソンを走ったら長期の休憩が必要になります。しかし走り終えたばかりの福士選手が十分な休息をとらずに名古屋ウィメンズマラソンに出場を決めているのです。今までにけがに苦しめられてきた事もあるのですが、そのリスクを背負ってまで福士選手のリオへの覚悟やどんな気持ちなのかが伝わってきます。周囲の様々な声が飛び交う中、日本陸連の会長は2月21日に福士加代子選手が事実上リオ五輪出場への内定を決めました。