福士加代子選手の名古屋ウィメンズマラソン参加で周囲は揺れていました。しかし、本人はリオ五輪に向けて頑張らないといけないと意気込み出場を決めていた。
福士加代子選手は高校時代までこれという成績は無く、インターハイ等でも決勝にギリギリ残る成績でした。企業のワコールに入社後は駅伝等で選手として急成長を始めます。2002年の2月、横浜国際女子駅伝で日本ナショナルチームに選出。渋井陽子選手と共に貢献し優勝をいたします。6月には日本選手権にて5000メートル、10000メートル共に初優勝を果たす。10月の釜山アジア大会では女子5000メートル、10000メートルは惜しくも共に銀メダル。ですが10000メートルでは自己ベストを50秒縮めてゴールする結果を残しました。12月には全日本実業団対抗女子駅伝大会で左膝を負傷し引きずりながらも走り続けそれでも区間賞を得ましたが、靭帯を切る大けがを負う。
2003年2月に福士加代子選手の故郷にて行われた、青森冬季アジア大会にてけがを抑えながらも最終聖火ランナーを務めました。けがの専念を果たし6月、日本選手権女子10000メートルで見事に優勝。8月の世界陸上には10000メートル11位の結果に終わりました。
2004年1月には京都市で行われた全国都道府県対抗女子駅伝競走大会で青森代表として9区10キロを走り区間記録を出しました。6月には日本選手権では10000メートルで優勝しオリンピックへの出場を果たします。8月に五輪初出場となるアテネ五輪にてレース前に足の故障する。結果は散々なものになりいつもは軽快なトークをする福士選手でしたが、この日は悔し涙を流していた。
2006年1月開催の皇后盃全国都道府県対抗女子駅伝競走大会と12月ドーハアジア大会で10000メートル共に優勝を果たす。
2007年彼女は大きな決断をします。「マラソン選手」として転向。
2008年初のフルマラソンの挑戦が始まります。1月に開催された大阪国際女子マラソンに出場。始めはペースが良かったのですが突如ペースダウン。幾度の転倒で惨敗。その後、福士はもう1度フルマラソンへの参加をほのめかすが北京五輪の選手枠が埋まっていた為断念をする。その後はマラソンから離れトラック競技に戻りました。
2011年10月のシカゴマラソンに福士が挑戦すると発表。結果は3位と2回目のマラソンとして記録を残せたこと急速な成長を遂げていた。
2013年1月の大阪国際女子マラソンに2年連続で出場。2位という結果でしたが、1位のタチアナがドーピング違反により繰り上げ1位、初優勝を飾りました。
そして2016年1月31日に大阪国際女子マラソンにて優勝を飾りリオ五輪の有力候補として名乗りを上げました。ですがこの時の記録をこれからの大会で越されてしまうとリオへの夢は無くなってしまう。福士本人からしたら絶対に出場したいリオ五輪。だから体力を無理してでも名古屋ウィメンズマラソンに出場をして確定をもらいたいと考えていた。
しかし、どんなに鍛えられた選手でもフルマラソンを走ったら長期の休憩が必要になります。しかし走り終えたばかりの福士選手が十分な休息をとらずに名古屋ウィメンズマラソンに出場を決めているのです。今までにけがに苦しめられてきた事もあるのですが、そのリスクを背負ってまで福士選手のリオへの覚悟やどんな気持ちなのかが伝わってきます。周囲の様々な声が飛び交う中、日本陸連の会長は2月21日に福士加代子選手が事実上リオ五輪出場への内定を決めました。